当社は、水俣の地で創業以来、地域の皆様に支えられ、地域とともに歩んでまいりました。この間、当社の工場廃水に起因して水俣病を惹き起こしたため、多くの方々が犠牲になられ、住民の皆様にもたいへんなご迷惑をおかけしておりますことは、まことに痛恨の極みであり、ここに改めて衷心からお詫び申し上げます。
当社は、これまで認定患者の方々に対しましては、1973年の協定により継続的に補償を行うとともに、公的機関により水俣病患者ではないとされた方及び審査の結論が出ていない方に対しましては、1995年の閣議了解「水俣病対策について」に基づく和解にて解決を図りました。しかし、その後2004年のいわゆる関西訴訟最高裁判所判決を機に、新たに水俣病問題をめぐって多くの方々が救済を求められていました。その解決を図るため、2007年には、与党水俣病問題に関するプロジェクトチームによる新たな救済策が示され、2009年3月に到り、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法案」(以下特措法と称します)が衆議院に提出され、7月8日に国会で成立しました。
この救済は、2010年5月から2012年7月まで申請を受け付け、2014年8月29日にその判定が完了しました。該当の方々への一時金支払いは2010年10月から実施しております。
こうした救済策が実施された一方で、水俣地域の再生が強く求められ、関係する皆様方のご努力により、これらの取り組みが進んでおります。
当社といたしましては、これからも自らその責任を重く受け止め、補償責任の完遂と地域貢献を会社の最重要課題として取り組み、一層の努力を重ねてまいります。
1.補償協定から1996年政治解決までの経緯
1)補償協定の成立
現在の水俣病患者の方に対する補償は、1973年7月に、患者各派との間に締結された協定(派に属さない方とは個人契約)に基づいて行われてきたもので、これまで2,284名の方々が認定(2023年5月末日時点)され、合計1,689億円(2023年3月末日時点)をお支払いしています。
この補償協定の成立過程におきましては、大半の会派とは話し合いでの決着を図りましたが、一部の会派との交渉は、極めて難航、混乱いたしました。
こうした事態を憂慮された三木武夫衆議院議員(当時環境庁長官)、沢田一精熊本県知事ほかのご仲介により、補償協定が成立しました。その内容は、表(1)のとおりとなっています。
2)県債方式による公的融資の開始
新たな補償協定の成立と、認定された方の増加により、会社の支出は、年々増えていき、1978年度に入る頃には、あらゆる資産(生産に直接係わらない、土地、社宅、有価証券等、有力子会社を含む)を売却し、金融機関からも特別支援を受けるなど、資金捻出のすべての手段を打ち尽した状況に陥りました。その後も、認定患者の方は増えていき、倒産寸前の状況となりました。そこで、当社があくまで責任を果たしていくため、政府支援を要請しました。
政府は、要請を受入れ、患者補償の遂行と水俣市を中心とする地域経済の維持を目的として、1978年6月、閣議了解により熊本県債発行を基軸とする公的融資を行うことが決定されました。
支援方針に基づき関係省庁間で決められた具体策により、補償金の支払いは可能となりましたが、他方で、総額約700億円(含金利)に上る水俣湾浚渫事業負担金(表(2)注)1)への手当はなく、設備投資資金の出処もありませんでした(後に主要子会社への政府系金融機関と民間金融機関による協調融資が認められました)。そのため、当社は、異例の資金対策も講じながら資金繰りをつけましたが、財務内容は、厳しい状況でした。
会社が補償金以外も含め水俣病に関連し、支出した総額を表(2)に示します。
注)1 水俣湾浚渫事業負担金
熊本県が事業主体となり実施された公害防止、環境復元事業。1975年基本計画が策定され、水俣湾内の堆積汚泥中、水銀濃度25ppm以上の水域について、浚渫、埋立が行われた。最終的な総費用は、478億円(内チッソ負担約64%、304億円)
3)1996年の政治解決までの経緯
補償協定成立後も、法律に基づく認定を求める方の申請や再申請が相当数増加していたことや、損害賠償を求める訴訟が各地で提起され、水俣病が大きな社会問題となっていました。
政府も、1991年に「今後の水俣病対策のあり方について」(中央公害対策審議会答申)を発表、行政施策が必要である旨を示し、水俣病にも見られる症状を有する方に、医療費や療養手当等を給付する水俣病総合対策事業が開始されました。
こうした中、認定されていない方によって提起された第3次訴訟では、原告は、全国公害被害者・弁護団連絡会議(全国連)として組織され、その数は、2,000人に及び、さらに増勢が見込まれました。被告はチッソのほか、国と熊本県、つまり国と県の責任が争われた点でそれ以前の訴訟と異なる性格を有しました。同様の訴訟が、1995年には全国の三つの高裁と五つの地裁で係属していましたが、この中で審理が最も進んでいた福岡高裁において、裁判所の勧告に従い和解協議が行われており、関係者の注目を集めていました。原告側は、熱心に和解を求めていましたが、国の不参加(県は和解賛成)のため、結審後3年を費やしても進展が見られない状況でした。
このような状況の下、自民、社会、さきがけの三党連立の村山内閣が成立しました。そしてこの政情で、訴訟上の和解問題の解決に止まらず、水俣病に係わる紛争を将来に向かって全面解決しようという潮流が生れました。その結実が同年6月の与党三党合意による「政治解決策」です。その内容は、訴訟上の争点である四肢末梢優位の感覚障害注)2を有する人に対し、チッソが一時金260万円を、国、県が医療費(本人負担分)等を支給することを主とするものであり、その基本には紛争の最終的、全面的解決という方針があり、全当事者がこれを了解することが求められていました。対象者グループ及び熊本県は早くから受入を表明、国も受入れに転じました。当社としましては、増え続ける県債の借入などにより、公的融資元利金を約定どおりに返済することは不可能になっていた財政状態の中で、当社廃水との因果関係が立証されていない対象の方に対する支払いを約束することは、本来できるものではないと考えていましたが、もし、この機会に水俣病補償の問題が本当に全面的に解決するならば、それは何よりも有難いことであり、この機会を逸しては再びチャンスが訪れるかどうかわからないと考え、思い切ってこの解決案を受入れる決断をしました。
注)2 四肢抹梢優位の感覚障害
四肢末梢、つまり両手首、両足首より先端(手袋靴下型)に強く現れるしびれなどの感覚障害。水俣病にも典型的に見られる症状の一つ
政治解決策の実施に当たっては、行政当局と一緒になって地域住民の皆様に呼びかけた結果、一時金対象者は10,305名(認定患者数の4.5倍)に上り、団体加算金と併せ、317億円を負担しました。この三党合意解決策の結果、関西訴訟を除いた損害賠償請求訴訟について、原告が訴えを取り下げ、認定申請者も減少していきました(図1)。
なお、このとき、当社が引続き補償責任を果たし、かつ、全面解決の一翼を担って行くためには、公的債務の返済条件の抜本的緩和が必要であることを政府に訴えたところ、理解を得ることができ、これがいわゆる「抜本支援策」となって実現し、2000年より現在の公的債務の返済ルールがスタートしました。
2023年3月31日現在の公的債務残高は2,002億円です。
2.最高裁判決後の状況と「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」の成立
(1)経緯
1995年の与党三党合意に基づく閣議了解により紛争の解決がはかられたものの、水俣病に係る被害の救済問題は、この時、唯一残っていた関西訴訟の最高裁判決(2004年10月)で、国、県の責任が追認されたため、2005年には、政府は「今後の水俣病対策について」を発表し、総合対策医療事業を拡充し、再開するとともに、新たな地域的取り組みを実施することとなりました。
しかし、その後も新たに多くの方が救済を求め(図1)、新たな訴訟が提起される状況となりました。
この状況を収拾するために、新たな救済策を検討する与党のプロジェクトチームが立ち上げられました。
当社は、水俣病関連債務により、大幅な債務超過という現状を鑑み、将来水俣病補償の完遂と公的債務の返済という責務を果たしながら、さらに新しい救済を実施するためには、資金確保のための当社の分社化が必要不可欠だということを訴えました。
2008年12月に到り、対象者への一時金支給や療養費及び療養手当の給付などの救済措置と分社化を同時に条文化した法律によって解決しようという方向性が示されました。2009年3月には、水俣病問題の「最終的包括的解決」を図るため、与党議員により衆議院に法案が提出されました。その後、自民、公明、民主の3党による与野党協議が重ねられ、一部修正の上、7月3日に衆議院、同月8日に参議院にて法案が可決され、同月15日に「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法(水俣病被害者救済特措法)」が施行されました。
同法成立後、訴訟で争っていた団体と和解協議を行い、2010年3月に熊本地裁などから提示された所見を、原告及び被告の双方が受け入れ、和解の基本合意が成立しました。
同年4月には、政府において、上記の和解の基本的合意をベースとしつつ、水俣病被害者救済特措法の救済措置の方針が決定されました。この方針の中で、救済措置の対象となる方について、当社等から一時金210万円及び団体への加算金を支給すること、国、県は、療養費、療養手当等を支給することなどが定められ、当該救済措置は、2010年5月1日から申請受付けが開始され、2011年3月には、三団体との紛争終結の協定が締結、さらに、救済措置の方針とほぼ同内容で、裁判で争っていた原告の方との和解が成立しました。
2012年7月に申請受付が終了し、2014年8月には、救済措置対象の判定が完了した旨、環境省から発表がありました。一時金対象者は、30,433名に上り、団体加算金と合せて約756億円の負担をいたしました(2023年3月31日現在)。
また、胎児性患者など介護等の必要な認定患者の方が、将来とも安心して暮らしていけるよう、今後も、国、熊本県、水俣市と協力してまいります。
(2)チッソの分社化について
事業再編計画策定時点において、当社は、水俣病関連損失のために大幅な債務超過となっており、公的支援によって、やっと経営が維持されている状態ですが、事業自体は年間の連結利益も約200億円に上り、事業に供する純資産(資産と負債の差額)も約500億円となっております。この事業部分をチッソ100%所有の事業会社(JNC)として独立させることにより、このような実力が、決算上、常に明らかにされ、現状に比し、信用が格段に向上し、取引の活性化や人材確保が計られます。
特措法では、チッソはホールディングス会社のような機能を持ち、水俣病補償等の責任を完遂するため、将来、JNCの株式を上場、売却し、事業会社を独立させることによって、その時の事業価値に見合った代金を入手し、この資金をもって、補償責任を有するチッソとして、患者の皆様への将来に亘る継続補償を積立て、今回の紛争解決に必要な一時金を拠出するなどにより補償等の責任を果たし、さらに、公的債務の早期返済を行うことを可能とすることに関係する規定も設けられています。
なお、この規定の活用は、救済の終了及び市況の好転まで当面凍結されており、また、その実行には、環境大臣の承認も必要です。
当社も世代交代を繰り返している中で補償責任を完遂するためには、分社化により責任を果たすための資金を担保すること、かつまた、会社の再建を図りうることは、先に述べたように、患者の皆様にも有益であると同時に、水俣製造所の拡充によって、地域経済にも好影響が齎されると考えております。
こうした考え方に基づき、環境大臣の認可をいただいて、2011年3月には当社からJNC株式会社への事業譲渡を行いました。
分社化の概念図(事業形態の見直し)
(3)水俣地域との関係
当社がこれまで関係先から受けたご支援は、「補償の完遂と地域経済・社会の安定に資する」という責務を果たすためのものと認識しております。
水俣は、当社にとって発祥の地であるばかりでなく、熊本、宮崎、鹿児島の各県内にある13ヶ所の水力発電所から得られる電力は、コストの面はもちろんのこと、クリーンエネルギーとして貴重な財産となっております。さらに、水俣製造所は、主力の液晶製造工場として重要な拠点であり、今後の事業拡大の要と位置づけております。
また、水俣地区ではグループ会社も含め多くの方が水俣地域に勤務しており、二世代、三世代の従業員も少なくありません。また、採用も地元を中心に行っており、従業員の家族を含めた地域との深い繋がりは、当社の事業が発展し続ける限り継続します。
今後とも地元に貢献していくために、また、認定患者の方々への補償等をしっかりと行えるよう、当社は、社員一同、一層社業に邁進してまいります。